一般民事関係 事例5 アルツハイマー病患者と意思能力の欠如

意思無能力

 注釈民法(3)(有斐閣発行、川島武宜編集)33頁25行目〜29行目に「意思能力のない者(嬰児、白痴、泥酔者等)のなした法律行為は無効である。この点に関し、我が国の民法には明文の規定はないが(ス民18参照)、民法起草者は当然のこととして規定したようであり、通説・判例(比較的最近のものとして、たとえば禁治産宣告を受けていない精薄者のなした法律行為に関する、最判昭29・6・11民集8・6・1055)によっても認められている。」と記載されている。
 老年性アルツハイマー患者も精薄者に準じてよいと思われるので、意思能力があるとは言えず、売買契約は有効に成立しない筈である。
 意思能力とは、契約の意味、売買対象たる物件の価値、登記、公正証書の意味、預金契約に意味等を理解する判断能力である。ところが、実際の裁判では「老年性アルツハイマー患者であり意思能力がない」との立証は、相当な苦労を強いられることになる。
 裁判官を含めて、法律家の老年性アルツハイマー病に対する理解不足がこのような立証の困難性をもたらすのであろう

事案の概要

  1.  アルツハイマー病患者が詐欺の加害者として不動産業者から訴えられ、損害賠償の請求を受けるという奇妙な事件があった。ある青年サラリーマンからの依頼であり、この青年から話しを聞くと以下のとおりである。この青年の父は都内、自宅の近所に貸地を所有し、借地人(自宅をこの借地上に立てて居住している)から地代収入を得ていた。また自宅の隣地に、アパートも所有していた。アパートの住人某氏が曲者だという。アパートの住人某氏はアルツハイマー病患者である青年の父に日頃缶ビールなどを振舞って、歓心を買っていた。青年の父はボケ老人として、ご近所では知られた人物だったのだ。この青年の父は、平成12年7月12日、精神科医の初診時、痴呆がここまで進んだ患者さんは成年後見申立をしないとだめだとアドバイスをされていた。その翌年4月に、民事訴訟が起きたのである。


  2.  私は、この青年の父親である老人の後見人として、長男のこの青年を指定すべく,平成12年11月13日東京家裁に民法第7条、成年後見開始の審判申立を行った。 申立理由は以下のとおり。

    • 平成12年7月12日に都内の某精神科医の初診。平成12年11月6日、この精神科医師の診断を受けたところ、アルツハイマー型老年性痴呆の中期ないし末期の患者ということで、療養させているが、病勢は益々昂進して現在も進行中で精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にあり回復する見込がなく、また財産管理不能で不動産を騙し取られる詐欺の被害に遭った。上記の詐欺の被害が甚大な為、被害回復の為の訴訟を提起する必要があるので早急に審理を求める。
    • この患者の症状、所見
         CT検査:  全般的脳萎縮あり
         脳波検査: 徐波あり
      長谷川式簡易知能テスト:17点〔満点30点〕
      (まだ重症度分類の基準は示されていないが、いまのところ痴呆、非痴呆の判別点は20点とされている)
      「問題行動の有無」:「幻視、幻聴」「作話」あり
      糖尿病及びアルコール性肝疾患あり
    • 平成12年8月13日某区役所要介護区分「要介護3」と認定され、現在短期入所療養介護と通所リハビリテーションを行っている。 〈注〉その後私は、民事裁判中の平成14年9月末に被告が入所している痴呆を受け入れてくれる介護施設を訪問して管理者をインタビューしたところ、被告の日頃の行状はやはり医師の診断が正しいことを裏付けた。
      被告本人ともインタビューしたが、「年金を月々8000万円頂いている」という始末なので、金銭感覚は全くないことが判明した。被告の年金受給額は実際は年額約120万円である。
      施設の管理者及び被告とのインタビューの状況をビデオに収録して、民事裁判で証拠として裁判所に提出した。

  3.  この審判の手続進行中に、何と、この老人は不動産業者から、詐欺の汚名を着せられて、訴えられてしまったのだ。

    訴状〈平成13年4月27日〉によると、平成12年9月22日、この老人がアパートの住人某氏に連れられて、不動産業者の事務所を訪問し、貸地の所有権を売り渡す契約(38坪の土地を500万円で売却)を締結し代金を取得したという。しかも、公正証書まで作成していた。
    貸地の所有権もこの不動産業者に移転登記がなされていた。不動産業者は地代の支払いを借地人に求めたが、債権者不確知という理由で地代供託(民法494条)をしたのである。土地賃貸人が近所で評判のボケ老人だから、土地の売買契約が無効となる可能性が高いと見て、地代を請求した不動産業者を信用せずに、弁護士に相談して、このような理由で地代供託をしたのである。

     借地人の弁護士がたまたま私の友人だったので、このような状況がわかった。
     そこで、不動産業者は地代も取得できない上に、もともと、所有土地を借地人に買い取らせて高額の差益を得る目的で、老人から安く土地を取得することを動機として、安く土地を買い取ったのだが、底地を借地人に売りつける目論見も失敗に終わり、止む無く、老人に対して詐欺を理由に訴訟を提起したのであろう。この38坪の土地(この土地はいわゆる底地、即ち借地人が自分の建物を建てている土地である)の価格は、後に鑑定したところ、約1500万円位ということで、時価の3分の1での安値売買であった。
     そこで、不動産業者は地代も取得できない上に、もともと、所有土地を借地人に買い取らせて高額の差益を得る目的で、老人から安く土地を取得することを動機として、安く土地を買い取ったのだが、底地を借地人に売りつける目論見も失敗に終わり、止む無く、老人に対して詐欺を理由に訴訟を提起したのであろう。この38坪の土地(この土地はいわゆる底地、即ち借地人が自分の建物を建てている土地である)の価格は、後に鑑定したところ、約1500万円位ということで、時価の3分の1での安値売買であった。

     我々(私とこの青年)の調査によると、老人はアル中であり、日頃缶ビールを飲ませてくれるアパートの住人に言われるがままに行動する。実印〈役所に印鑑登録した印鑑〉は長男が預かっていたのだが、アパートの住人に連れ出されて、区役所へ同道して、実印を紛失したと虚偽の事実を申し立てて、印鑑登録の変更をして、印鑑証明書を取得し、不動産業者に、不動産の所有名義を移転してしまったのだった。
     登記済権利書についても、その紛失を理由にして、保証書を作成していた。このアパートの住人は不動産業者から100万円の謝礼をもらっていたのである。
    この人物は後々老人の長男から告訴されるのが怖かったのか、老人名義で某信用組合に代金の内金300万円を預金し、不動産業者に通帳と印鑑を渡していた。このアパートの住人は借金だらけの人物で、損害賠償を請求しても、取立てが出来ない。
     とすれば、我々〈青年と私〉としては、貸地の所有名義を回復する以外に被害回復の方法はないのである。


  4.  裁判所〔東京地裁〕に訴訟の進行を事実上停止していただき、この青年が家裁で平成13年6月後見人に指定された後、私はこの青年から訴訟委任を受けて、老人の訴訟代理人となった。

 アルツハイマー患者が、不動産業者を騙すという非常識なことがありうるのだろうか?
 不動産業者の訴訟代理人が公正証書を作成した公証人〈元裁判所の所長・裁判官〉へ照会文書を出しており、公証人が「当事者に意思能力があることが判っていれば、公正証書を作成することはありません」と回答している。
 担当裁判官は、先輩の肩書きを信用されたのか、かなり、不動産業者に有利な心証をとっているようで、私としても不安を感じる。医師と私の法廷における問答を以下に採録してみよう。

医師と林弁護士の問答

法律専門家の痴呆症患者を見抜く能力の有無

林:
原告代表者〈不動産業者の社長〉、公正証書を作成した公証人、登記手続きを依頼された司法書士、司法書士事務所の職員  、老人から土地売買代金を預け入れた信用組合の支店長についてお伺いします。これらの人々の陳述書には老人が「精神的な欠陥があるとは思われなかった」、「老人にアルツハイマー病と見受けられる症状は一切ありませんでした。」、「意思能力がないことがわからなかった」「意思無能力ではありませんでした」、「通常に会話もし、身振りも手振りもできたので一般の年配者と変わりませんでした。」、「ごく普通の人と変わらなかった」、「全く普通の人だと思っていたし、特別変わった言動はありませんでした。」等と供述しています。
平成12年7月先生の初診時よりもこの老人の病態がさらに増悪していくとすると、同年9月当時の土地売買のような複雑な取引ではこの患者さんはおよそ他の人と会話はできなかったはずだと思われますが、いかがですか?
医師:
 公証人らの人たちは、精神科の医師ではないので、痴呆症の患者さんの診断をする能力がないと思います。表面的に見ただけでは、何もわかりませんよ。町を歩いている人の中でも精神障害の人は山ほどいますよ。外見を見ただけではわからないのです。
 これらの観察者の作成された書類を見ても、老人が要求された書類に自分の署名をして、印を押したりしたことが書かれています。更に、この患者さんに書類の内容を読み聞かせて署名捺印をしてもらったというのです。しかし、このような事実が仮に存在したとしても、書類の内容の意味や、その書類によって、不動産の権利を不当に安く売って、みすみす損をすることを老人が正しく理解していたとは思われません。
 これらの観察者たち(文書作成者たち)は、痴呆症の患者さんの診断をする能力がないと思いますので、この点の判断をできるはずがないから、私たち専門家の鑑定書が必要になるんですね。公証人さん、司法書士事務所の職員、信用組合の支店長は老人に心理テストをしたわけでなく、脳波、CTなどの検査を理解する能力がない素人でしょう。私は約20年精神医学を専門に勉強や診療をしてきたのです。私が「老人は土地売買取引の意味について正常な判断はできなかった」「老人がおよそ他の人と会話はできなかった」と言うのは、先ほども述べたとおり、ある目的のために、状況を判断しがら、意思を伝達し合うことを「会話」といいますから、そういう意味の「会話」は出来なかったでしょう。
林:
土地売買の契約締結の場において契約の相手方から契約書を示され、「この契約書に署名しますか?」と問われて首を縦に振って頷くという動作を老人はすることができますか?
医師:
出来ると思います。

NHK総合テレビ ニュース(平成20年1月19日土曜 午後5時36分放送)
「認知症3人に1人診断されず」

 認知症は、脳に障害が起こることで記憶力が低下したり、周りのことが正しく認識できなくなったりする病気で、早期に発見し、適切な治療を受ければ病気の進行を抑えることができるようになっています。
 NHKは、認知症の医療の実態を調べるため、「認知症の人と家族の会」などの協力を得て、およそ230人の患者を対象にアンケートを行いました。
もの忘れなどの症状が現れてから初めて訪れた医療機関で認知症と診断されたかどうか尋ねたところ、全体の34%にあたる77人が「診断されなかった」と答え、3人に1人が認知症を見過ごされていることがわかりました。このうち、22%は医師に「年相応で病気ではない」と言われ、うつ病など別の病気と診断された人が17%、「異状なし」と診断された人も9%いました。 また、認知症と診断されるまでに、3か所の医療機関を訪れた人が26%、4か所以上回った人も15%いました。
 認知症の患者は全国におよそ170万人いると推計されていますが、専門医が少なく、一般の医師も認知症を十分理解していないため、診断や治療が遅れ、病状の悪化を招いていると指摘されています。
  「認知症の人と家族の会」の高見国生代表理事は、「医師は異状を訴える患者や家族の声をきちんと受け止めてほしい。認知症が専門でなければ、速やかに専門医を紹介することが診断や治療の遅れを防ぐために必要だ」と話しています。

土地の値段の理解能力

林:
土地の売却を勧める隣人が、老人に付き添っていって、自分の土地を時価より大幅に安い値段で売ってしまう契約書について署名することを勧めた場合、署名してしまうことがありえますか?
医師:
有り得ます。
林:
老人は平成12年9月当時、自分所有の土地の値段等についての 利害得失の判断ができる状態でしたか?
医師:
そのような高度な判断は到底出来る状態ではありませんでした。
林:
土地の売却を勧める隣人が、老人に付き添って司法書士事務所に行って、自分の土地を時価より大幅に安い値段で売ってしまう売買契約の登記手続きのための司法書士宛委任状に署名を勧めた場合、老人は署名してしまうことが有り得ますか?
医師:
有り得ます。

[登記の意味の理解能力]

林:
登記がどのような意味を持つのかを老人は当時理解していたと思われますか?
医師:
老人は当時、このような高度な判断はできません。

[暗示誘導]

林:
アルツハイマー型老年性痴呆の中期から末期の人は、暗示にかかったり、誘導に乗りやすいのですか?
医師:
状況の判断ができないので、おだてられて気持ちいい気分にされれば「はい、はい」と言うことを聞くことはあるでしょう。

詐欺と実行機能〈遂行機能〉の障害

詐欺というのは計画の立案、実行を伴うものである。アルツハイマー病の初期患者でもこのような能力はない。精神医学の側面から見ると、臨床精神医学講座S6「アルツハイマー病」 責任編集 三好功峰〈兵庫能研所長〉、小坂憲司〈横浜市大教授〉、中山書店)80頁に「思考・判断の障害としては、物事を計画したり、組織だて物を考えたり、抽象的な思考をしたりすることができなくなり、初期から、日常生活において家計を管理したり、使い慣れた器具が使えなくなったり、人前で適切な態度がとれないなどのことが目立つ。」と記載があります。

林:
先生、詐欺というのは人をだますという計画の立案、実行を伴うものですね。
医師:
そうです。
林:
アルツハイマー病の初期患者でも詐欺という、人をだまして、金銭を取得するという計画の立案、実行を伴う作業をするような能力はありますか。
医師:
そのような能力はありません。
林:
本件の被告はアルツハイマー病の中期ないし末期の患者ですね。そうすると、被告は詐欺というの、人をだまして、金銭を交付させるという計画の立案、実行を伴う行為は当然、実行不可能ということですね
医師:
はい、そうです。

法的側面から見ると、注釈民法(3)総則(3)223頁・12〜21行目(1973年、有斐閣、川島武宜編)に以下のような記載がある「詐欺が成立するためには、詐欺者に2段の故意があることを必要とする。すなわち、
 ・相手方を欺罔して錯誤におとしいれようとする故意
 ・さらに、この錯誤によって意思表示をさせようとする故意
である。なお、故意とは、行為のもたらす一定の結果を知っていてあえてその行為をなす決意をいう。」

この老人のように認知機能の障害があるアルツハイマー型老年痴呆患者が、詐欺行為の「故意」の要件として必要とされる
 ・虚偽を認識して、相手方を騙して錯誤におとしいれようとする意思と、
 ・および、この錯誤によって意思表示をさせようとする意思
(いずれも、計画立案能力を要します)をもち得るはずがないわけです。

和解による解決

この事件は「某信用組合に預金されている300万円の金員について原告にその取得を認める。土地所有権の名義を被告が返還を受ける。」ということで平成14年12月4日に和解が成立しました。

  1. 本件売買契約は被告がアルツハイマー型痴呆であり、意思能力がないので無効であることを確認する。
  2. 別紙物件目録の不動産の所有権が被告に帰属することを確認する。
  3. 原告は、被告に対して別紙物件目録の不動産売買に関する移転登記を「錯誤」(註参照)を原因として、抹消登記手続きをする。
    (註)不動産登記法実務上は「錯誤」でも、「所有権移転無効」でも「売買無効」でもよい(「不動産書式精義上巻 香川保一編著768頁参照)
  4. 原告は被告に対して預金証書および印鑑を和解の席上で交付した。
  5. 上記預金債権が被告に帰属することを確認し、原状回復義務の履行として被告は原告に預金300万円及び利息金を平成14年12月20日までに返還する。
  6. 被告は別紙物件目録の不動産に関する公租公課(平成13年、14年分計xxxxx円)を前項と同時に支払う。(その他の条項は省略)

感想

弁護士や裁判官にアルツハイマー病に関する知識があればこんな訴訟も提起されず、裁判でこんなにモメルこともなかったのではあるまいかと思います。