医療過誤事件 事例3 救急医療事件

夜間救急医療体制の不備

 最近マスコミで騒がれている夜間救急医療体制の不備は「患者の診療拒否による他病院へのたらい廻し」という態様だけでない。
本件は、患者が病院で受け入れられたけれど、おざなりな治療で、自宅へとんぼ返りさせられ、死亡したという事例である。
夜間当直医、救急医学の専門医の不足も深刻だ。

事件の発端と終結

 平成14年10月10日カルバマゼピンを夜間過量服用して強い薬物中毒症状を発した患者さんが救急車で搬送されたが、病院では点滴処置を受けただけで入院もさせてもらえずに、帰宅途中に死亡した事例。奇しくも、裁判上の和解成立日(平成18年10月10日)が事故発生日から丁度4年目の命日であったため、和解成立直後に林弁護士は遺族のご自宅を訪ね、被害者の仏前で事件の解決を報告した。

事案の概要

[医療機関]
公立病院
[患者の年齢・性別・身体的特徴]
33歳・女性 体重93kg 下顎未発達
[病歴]
患者は境界型人格障害の診断で、被告病院精神科にて、月に2回くらいのペースで約5年7ヶ月間外来診療を受けていた。カルバマゼピン(てんかん治療薬・精神安定薬)を処方されていた。

[薬物過量服用から死亡まで]
患者は死亡の前夜12時頃、自殺目的でカルバマゼピンを8錠から20錠を服用し、服用から約1時間20分後に救急車で被告病院に搬送された。夜間救急外来担当の医師は意識レベルの診察と点滴処置をおこなった。受診後約2時間後に帰宅させられた後、帰宅途中のタクシー内で死亡した。

争点

  1. 死因・因果関係
  2.  カルバマゼピン中毒死か、カルバマゼピン中毒に起因する舌根沈下による窒息死か、病院とは関係のない何らかの外力による息死か否か、が争われた。

  3. 医師の過失
    1. 薬毒物の体外除去の懈怠(胃洗浄、活性炭、下剤の投与の不作為)
    2. 経過観察の懈怠(診察の懈怠、生体情報モニターの装着懈怠、入院させず帰宅させた処置の是非)

事件の経過及び結果

平成15年2月24日に請求額8,300万円で東京地裁に提訴。平成18年10月10日に3,000万円で裁判上の和解が成立。

  1. 診療経過
    平成14年 10月10日 午前1時20分(診察室)
    被告病院医師(呼吸器内科専門医)が1度目の診察を行った。
    意識レベル「JCSI-2」、ブドウ糖 500mlの点滴の指示。

    午前2時50分(点滴室)
    医師が最後の診察。「JCSII-20」と意識レベルが増悪していた。この診察の前後に、患者は2度嘔吐(カルバマゼピン中毒症状)しているにもかかわらず、この時点で、医師からは点滴終了後の帰宅許可が出されている。

    午前3時20分(点滴室)
    医師の診察なく、点滴終了後に看護師より帰宅指示有り。意識が無く、自力で起立、歩行が不可能な患者を6人がかりでタクシーに乗せて帰宅した。
    家族は、到着した自宅の玄関先にて患者の異変(心肺停止状態)に気付き、患者は他院へ救急搬送された。しかし救命治療に反応せず、午前4時56分に死亡確認となった。帰宅途中のタクシー内で、既に呼吸不全により心肺停止状態になっていたものと思われる。
    当日午後2時23分頃、他の大学病院で行政解剖が施行された。

  2. 死因・因果関係

     患者のカルバマゼピン血中濃度は26.4μg/ml(解剖時測定)、服薬量は8錠〜20錠であり、被告の主張するとおり、薬理学文献上も明らかに致死量とは言えなかった。しかし、医療事故情報センター紹介の救急医療指導医の証言により、流れは一転し、本件患者の死因はカルバマゼピン中毒に起因する舌根沈下による窒息死であることが明らかとなった。

    1. 薬理学文献によると、患者のカルバマゼピン血中濃度は26.4μg/ml、服約量は8錠〜20錠は、致死量ではないが、中毒量ではある。
    2. カルバマゼピン中毒によって意識レベルが低下して舌根沈下が起こり窒息死することがある。
    3. 患者には、肥満・下顎未発達等があり、もともと舌根沈下をおこしやすい体質である。
    4. 退院前に薬物中毒症状である嘔吐が2度ある。
    5. 患者の母親やタクシー運転手の証言から、退院直後の患者の意識レベルがJCSIII-300(深昏睡)と推測され、タクシー内で外力が加わった可能性を議論する以前に、カルバマゼピン中毒による窒息死と考えるのが妥当である。

  3. 急性薬物患者治療に対する医師の義務は何か?

     原告協力医である救急医療指導医の意見は以下のとおりであった。

    1. 患者が服用した薬物の種類や量を聞き取り、その性質をしっかりと調べる。
    2. 薬物中毒患者の多くは、服薬した薬物の体外除去(胃洗浄等)と患者観察(生体情報モニターの常時装着)に基づく対症療法のみによって回復する。従って、体外除去は可能な限り行うべきであるし、生体情報モニターを装着して、異変が生じれば警報が鳴るように設定しておき、すぐに駆けつけるといった体制をとり、患者観察を徹底させなければならない。
    3. 薬物を飲んだ量は現実には正確に確定することが困難であるし、薬に対する反応も患者によって個人差がある、さらに薬物によっては血中濃度のピークが極端に遅いものもある。従って、中毒症状は経過を追って発現し、増悪する場合が多い。薬物はいったん体内に吸収されてしまうと、体外へ除去するのには時間が必要で、その時間稼ぎのためにも経過観察が必要である(「急性中毒診療マニュアル」67頁、関州二著、金原書店によると、カルバマゼピン中毒について、「症状がなくても6時間は経過観察を行う」という)。 本件において、2度の診察で安易に観察を放棄せず、大事をとって中毒症状が消失するまで生体情報モニターを装着しておく必要がある。
    4. 退院の判断は、患者の臨床症状が完全に回復したことが確認された場合に行うべきであり、また、症状が悪化しているにもかかわらず(本件患者の場合には意識レベル)、退院との判断を取ることは絶対にしてはならない。

  4. 被告医師の過失及び因果関係

    1. 薬毒物の体外除去の懈怠(胃洗浄、活性炭、下剤の投与の不作為)

       被告は文献に基づき、服薬後1時間が経過した本件の場合(1時間20分後)には胃洗浄は効果がなく、医師の不作為は問えないと主張した。しかし、救急医療指導医からは、自殺企図者の場合何時に過量服用をしたかも不正確であるから、時間的な誤差を考えて本件では胃洗浄をおこなうべきであること、また、カルバマゼピンは性質上胃に滞留する時間が他の薬物より長く、薬理上も胃洗浄は有効であるとの証言を得た。
      活性炭や下剤についても、被告は効果がないと主張したが、実際には、臨床上、腸の中の薬毒物除去に有効とされ広く使用されているので、被告の主張は根拠がない。

    2. 経過観察の懈怠(診察の懈怠、生体情報モニターの装着懈怠)

       被告医師は、ベットサイドでの患者の診察自体は2度しか行っていなかったものの、他の時間も患者のイビキを常時聴いており、そのイビキの様子から患者の状態を観察していたと主張した。また、初診時の患者は会話が可能であったことから、生体情報モニターを装着する程のものではなかったとして、装着の必要性を否定した。
       しかし、前述のとおり、薬物中毒患者の症状は時間経過により増悪するのであるから、患者の観察をしっかりと行い、症状に応じた治療を行うしかない。その際には、医師が患者を頻回に観察し、患者に生体情報モニターを装着し、警報装置を設定して、監視を行うべきであるというのが、救急医療指導医の意見であった。 一方、弁論終結直前に行われた証人尋問において、被告医師は、「当夜午前1時から午前3時20分頃までの間、救急外来室にいた患者は6名で(前夜からの引き継ぎ患者を含む)多数の患者(救急車で搬送された患者、風邪引き、腹痛患者も含む)を診察すべく、三つの診察室を駆けずり回っていたので大変だった」と自己弁解的な発言をし、さらに、患者が嘔吐したという重要事実が医師に伝えられていなかった(看護師は連絡したと言う)ことも判明した。この証言によって、訴訟の最終段階で、被告側が患者の経過観察を殆ど行っていなかったことが明らかとなった。
       また、入院時から、患者の意識は徐々に増悪しており、1度目の診察時には「JCSI-2」であったのが、2度目の診察には「JCSII-20」に、そして、医師の診察後のタクシー乗車時には「JCSIII-300(深昏睡)」(推定)となっている。「JCSIII-300」の際に何ら疑問も持たず、帰宅を見届けた看護師にも問題はあるが、それ以前に、医師が、「JCSI-2」から「JCSII-20」へと意識レベルが増悪した患者に対し、退院の許可を出すべきではなかった。
       本件において、担当医がもし手軽で簡便な治療手順(生体情報モニターの装着、同モニターに組み込まれているパルスオキシメーターの使用、警報装置の使用)を省略してさえいなければ、本件患者を帰宅させる挙に出ることはなかったと思われる。すなわち、急激な意識レベルの低下、舌根沈下による気道閉塞、換気障害が発生した時点で生体情報モニターの警報が鳴るので直ちに救命処置をとることが出来、死亡を防ぎえたはずである。この点についても救急医療指導医の証言を得た。この証言によって、過失と因果関係の存在が立証された。

    3. 過失の推定

       なお、医療事故における不作為型の重過失というのは、医師が簡単に実行できることを実行しないことを意味する。前記の生体情報モニターの不装着とか、さらに、医療者にとって必須本である日本医薬品集や薬剤の能書(使用上の注意説明書)などに、特性、過量服用の場合の症状、治療法などが記載されているのに、これを参照する手間を省くなどが、過失を推定する事実である(最高裁平8.1.23、稲垣喬、医療訴訟入門110頁)と思われる。

  5. 損害論

     和解金3,000万円。死亡時無職だった患者は、母親の家事の手助けをしていた程度であるため、逸失利益は多くを期待できず、損害額の中心は死亡慰謝料である。医師の重過失として慰謝料の増額請求を行い、葬儀代も加味した額である和解金3,000万円は適当な金額と思われる。その意味で勝訴的内容の和解と考えている。

コメント

 筆者は、2006/10/18 (水)、pm7:30 に放映されたNHK の「クローズアップ・現代”防ぎ得た死”救急医最前線」という番組を見た。この番組によれば、アメリカには3万5000人もの救急専門医がいるのに対し、日本の救急専門医はわずか2500人しかいないそうである。日本に於ける救急専門医の不足は深刻な状況である。
 日本では、総合病院であっても、夜間には救急専門医が居ないところが多い。本件の医療事故も総合病院で発生したが、本件患者の救急診療を担当したのは、夜間当直で救急患者の診察に当たっていた呼吸器内科専門医であった。
 しかし、夜間当直等でしか救急医療に関わらない医師は、薬剤過量服用の急性中毒患者(多くは自殺目的)を診療した経験を有しない場合が多い。制度論としては、救急医療専門医の数を増やすこと及び、救急医療専門医による指導の徹底が課題であろう。

 しかし、現在の医療体制の下でも、薬剤過量服用の中毒患者の救命ができないわけではない。自殺企図者が過量服用する薬剤は多種・多様であるが、医療者にとって必須本である日本医薬品集や薬剤の能書(使用上の注意説明書)などに、薬剤の特性、過量服用の場合の症状、治療法などが記載されている。よって、医師がそれらの文書を参照しさえすれば、十分救命は可能である。
 被告医師が、その最低限の手順すら省いてしまい、点滴のみで患者を帰宅させるという怠惰な医療を行ってしまった事が悔やまれる。